1万2,000人が幕張に集結した日に、何かが変わった
2026年8月6〜9日、幕張メッセで開催されたAirAsia HYROX CHIBAに約1万2,000人が参加しました。2025年8月の横浜初上陸(約3,800人)、2026年1月の大阪大会(約8,000人)から参加規模は加速的に拡大しており、すでに2028・29年の大会準備が始まっています。
この熱量を「流行りのフィットネス大会が盛り上がっている」と読むのは、表面だけを見ています。HYROXの周辺で起きていることは、フィットネス産業そのものの構造変化を示す信号です。
参考:
- FITNESS LOVE「日本初の4日間開催となったHYROX、約1万2000人が幕張に集結」https://www.fitnesslove.net/fitnesscategory/hyrox/170427/
8年で年商200億円、収益の75〜80%がチケット——この数字が示す本質
HYROXの成長軌跡を公式データで確認すると、2017年の初大会参加者650人から、2021/22シーズンに約9万人、2022/23シーズンに約17.5万人、2024年には65万人、2025/26シーズンには130万人超が見込まれています。5年で参加者が約1,400%増という驚異的な拡大です。
財務面では2025年の売上が1億3,000〜1億4,000万ユーロ(約200億円強)、EBITDAマージンは約20%と報告されています。一般的なBtoCフィットネス事業ではまず到達しない水準です。
その理由が収益構造にあります。通常、マラソンのような大規模参加型スポーツの収益の約9割はスポンサー由来です。しかしHYROXは収益の75〜80%が参加チケットから生まれています。この事実が示すのは、プロモーションで需要を作ったのではなく、需要が先に存在していたということです。参加者がゴールした記録や写真をSNSに投稿することで広告塔となり、通常のBtoCビジネスと比して広告宣伝費を大きく抑えられる構造が、このマージンを可能にしています。
そして2026年6月、LVMHのアルノー家がバックにいるプライベート・エクイティファンドL Cattertonが、HYROXの株式取得に向けた独占交渉に入ったと報じられました。企業価値は7億〜10億ユーロ規模とされています。L Cattertonはこれまでに、高級フィットネスチェーンのEquinox、Peloton、Solidcoreに投資しており、ラグジュアリー資本がフィットネスを「耐久性のある資産クラス」と判断したことを意味しています。
参考:
- HYROX日本公式サイト「歴史」https://hyroxjapan.com/ja/歴史/
- Fitness Business「HYROXを導入しフィットネスクラブの活性化と収益増の実現を目指す」https://fitnessichiba.jp/blogs/contents/hyrox
- European Business Magazine「LVMH’s L Catterton Eyes $1bn Hyrox Fitness Deal」https://europeanbusinessmagazine.com/lvmh-hyrox-private-equity-deal/
- Private Equity Wire「L Catterton in talks to acquire stake in fitness brand Hyrox」https://www.privateequitywire.co.uk/l-catterton-in-talks-to-acquire-stake-in-fitness-brand-hyrox/
- SportsVerse「Why LVMH-Backed L Catterton Wants Hyrox」https://sportsverse.substack.com/p/lvmh-hyrox-puma-l-catterton-adidas-nike-on
- keedia「L Catterton Eyes HYROX: What the Deal Signals」https://keedia.com/pro-gym/l-catterton-hyrox-acquisition-deal-signals-gym-operators/
健康志向は高まっているのに、フィットネス参加率が8年間横ばいのなぜ
日本のフィットネス参加率は約4〜7%と国際的に低い水準で、米国の約20%・英国の約15%と大きな差があります。さらに注目すべきは、2017年から2025年まで8年間、参加率がほぼ横ばいで約11〜12%に留まっているという事実です。市場規模は拡大しているにも関わらず、フィットネスに参加する人の割合は増えていません。
一方で、2025年の健康意識調査では全体の76.4%が「健康に気を付けている」と回答しています。健康への関心は高いのに運動習慣にまで至らない「もったいない層」が日本には大量に存在しています。
この乖離を埋める鍵がコミュニティにあることは、データが示しています。ABC Fitnessの調査では、クラブ会員の73%が「一定のモチベーションを保つにはコミュニティの存在が重要な役割を果たしている」と回答しています。SATSのデータでは、グループフィットネスクラスに参加する会員の在籍期間は、参加しない会員の1.8倍長いという結果も出ています。つまり「一人で通うジム」より「誰かと一緒にやる運動」のほうが継続率が高い。HYROXはこの構造を競技フォーマットとして具現化しています。
飲酒行動の変化もこの文脈と無関係ではありません。厚生労働省の調査では、2019年時点で20代の29.4%が「全く飲まない」、26.5%が「ほとんど飲まない」と回答しており、若年層の非飲酒化が進んでいます。健康への意識が高まり、酒の場が減る一方で、人とつながりたいという欲求が消えたわけではない——その受け皿が変化しつつあります。HYROXやピックルボールに集まる人々が、かつて飲み会が担っていた社交機能をフィットネスで代替している可能性を、これらのデータは示唆しています。
(※この「社交の場の移動」という解釈については、ソルト氏のnote記事「令和のステータスは昼とウェルネスへ。HYROXとピックルボールの流行からわかること」https://note.com/salty02/n/nb4c72821b649 を参照の上、dotnow編集部として独自に考察を加えています)
参考:
- J-Net21「フィットネスクラブ(2025年版)」https://j-net21.smrj.go.jp/report/research/service/cons-fitness2.html
- LAULEA 50 Fitness「日本のフィットネス参加率はなぜ低い?」https://laulea-50fit.com/jyapanfitnessjinkou/
- Les Mills「2026年のフィットネス業界を賑わす7つのトレンド」https://www.lesmills.com/jp/articles/7-key-trends-shaping-fitness-in-2026-jp
- Mintel Japan PRTimes「アルコール飲料トレンド日本2024年」https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000063.000072766.html
- Vpoint「健康意識に関する調査(2025年版)」https://www.vpoint-biz.jp/columns/research17
競技の内容は革新的ではない——変わったのは「意味付け」だけ
HYROXが行っていることは、1kmのランニングと8種類のファンクショナルワークアウトを交互に繰り返すだけです。SkiErg・スレッドプッシュ・スレッドプル・バーピーブロードジャンプ・ローイング・ファーマーズキャリー・サンドバッグランジ・ウォールボール——いずれも従来のジムで見られる種目です。99%以上の参加者が完走できるという完走率の高さが、参入障壁の低さを担保しています。
変わったのは「意味付け」だけです。「ワークアウト」ではなく「レース」と呼ぶ。種目ではなく「ステーション」と呼ぶ。世界統一フォーマットでタイムが記録され、世界中の誰とでも比較できる。完走それ自体がステータスになる。
2021年のロンドン初開催時の参加者は532名でしたが、2023年のロンドン大会では24,000名と約45倍になっています。フォーマットは変わっていないのに、参加者が45倍になった——これが「意味付けの変換」の力です。
参考:
- HYROX日本公式サイト https://hyroxjapan.com/ja/
- Disport World「HYROX完全ガイド 2026」https://disport.world/hyrox-complete-guide/
- Fitness Business 同上
「見せる身体」から「使える身体」へ——人口動態が示すニーズの変化
HYROXの競技設計には「見せるための筋肉ではなく、動ける身体」という思想が埋め込まれています。これは単なるコンセプトではなく、人口動態的な変化と一致しています。
日本では高齢化が急速に進んでおり、健康寿命への関心が拡大しています。Survey Reports合同会社の市場調査によると、40代以上の層で予防医療・機能維持を目的としたフィットネス需要が伸びており、今後も高齢者向け専門プログラムの需要拡大が見込まれています。hacomonoが2025年のSPORTECで発表した全国2万人規模の独自調査でも、フィットネス参加率7%という現状に対して未開拓のポテンシャル層が存在することが示されており、その中には「見た目よりも機能的な身体」「仲間と動く体験」を求める層が含まれると考えられます。
参考:
- Survey Reports合同会社「日本のヘルス・フィットネスクラブ市場の需要・シェア・動向(2026〜2036年)」https://www.dreamnews.jp/press/0000347976
- hacomono note「フィットネス参加率7%の現状と可能性」https://note.hacomono.jp/n/n206642697d01
パーソナルトレーナーへの意味——「目標の器」を持てるかどうか
HYROXを日本に展開するFitness Marketのデータでは、HYROXを導入した一部のジムで導入半年で売上・利益3倍、退会率1%という成果が報告されています。退会率1%は通常のフィットネス業界データと比べると突出した数字です。
この差を生んでいるのは「次の大会・次のタイム」という目標が自動的に生まれる構造です。パーソナルジムが長年抱えてきた継続率問題——短期コースが終わると会員が離脱する——の根本には「目標を達成した後に次の目標がない」という設計の空白があります。HYROXは外部の目標として機能し、「HYROX準備のための月謝型継続指導」という文脈を自然に生み出します。
日本のHYROX Training Club加盟施設数は2026年4月時点で約95施設・認定コーチ45名にとどまります。これはまだ参入余地が大きいことを意味します。パーソナルトレーナーが自らHYROXに出場し、顧客にその体験を語り、「一緒に出ましょう」という文脈を指導に組み込むことは、集客ではなく「目標の提供」です。
参考:
- Fitness Business「HYROXを導入しフィットネスクラブの活性化と収益増の実現を目指す」https://fitnessichiba.jp/blogs/contents/hyrox
- 向井俊介「なぜHYROXはたった3回の開催で1万2千人を集客できたのか」https://note.com/shun0718/n/na066701f5670
dotnow編集部の見解——「産業」から「カルチャー」への変化が意味すること
複数の業界データから見えてくるのは、フィットネスが「健康のための手段」から「アイデンティティと社交の装置」へと変容しているという構造的変化です。
日本のフィットネス参加率は8年間横ばいです。しかしHYROXは3回の日本開催で参加者を3,800人→8,000人→12,000人と急速に拡大させました。その差は、HYROXが「ジムに通う」ではなく「大会に出る」という動機軸を持ち込んだことにあります。健康に気を付けている人が76%いるのに参加率が7%にとどまる最大の理由は「続ける理由がない」からです。HYROXはその理由を外部から与えます。
パーソナルトレーナーが本来持っている価値——指導の一対一の伴走——は、この変化の中で最も代替されにくいものです。場所を提供するだけのジムが選ばれにくくなる時代に、目標を持たせ、仲間を作り、達成を共有する体験の設計者としての役割が、最も必要とされるようになっています。
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